『たった、それだけ』 宮下 奈都著

   加納くんと、梅雨の頃にスーパーで会った。カゴも持たずにひとりで棚の間を歩いていた。楽しそうには見えなかった。ずいぶんぼんやりしている、と思った。もう少し正直に言うなら、目が虚ろだった。加納くんは、カートを押す私に気がつくと、はっといたようだった。急いで少し笑った。それから何か言おうとして口を開きかけて、噤んだ。表情は、虚ろよりもっと暗く翳ったのがはっきりわかった。
「どうしたの」
   たった、それだけ。それだけのことが、どうして言えなかったんだろう。



「私はもう必要のない人間ということなんでしょうか」
   必要のない人間なんていない。反射的に答えようとしたけれど、あまりにも嘘くさかった。人間なんてそもそも必要のない生きものなのではないかという気さえする。
   でも、可南子さんは「もう」と言った。以前は必要のある人間だと思っていたということだ。たぶん、正幸にとって。たった、それだけ。正幸にとって必要があるかないかでこの人の人生は反転するのだ。



   俺は自分に言い聞かせているのだ。博打に入れ上げ、多額の借金を残してさっさと自殺してしまった父親の呪縛から、逃れようとしている。
   いや、逃げるのとは違うのかもしれない。逃げても追いかけてくる。逃げても逃げても安心できない。立ち止まって、振り返って、追いかけてくる不安に面と向かって、俺は俺だと言う。たぶん、それが必要だった。
   俺は俺だ。たった、それだけ。その簡単な言葉が言えなかった。空を仰ぎ、灰色の雲が垂れ込めているのを見る。俺は、俺。笑ってしまいそうだ。俺はずっと俺だったのに。



「てもね、不幸ではないです。好きな人と好きな映画を観た。短い間だったけど、一緒に暮らした。たった、それだけです。その記憶だけで、生きていけるんです。もう決して触れてはいけない、幸福な記憶です」



ほんの些細な、たった、それだけのこと?と他人なら思ってしまうことが、当人にとっては、取り返しのつかないことであったり、非常に大きな問題であったりします。

それは、解決されるのでしょうか?
それとも、もう触れてはならない過去の幸福の代わりに、残された心の傷を、一生、痛みとして感じ続けなければならないのでしょうか?
自分の過ちを他人にも負わせたら、その償いをどうすればいいのでしょう?


それぞれがもっている、各々のたった、それだけ
この物語には、たった、それだけのことだけど、それを気付いた人たちのお話が綴られています。